土木学会が平成12年に設立した認定制度──『土木学会選奨土木遺産』。顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的に、500件を超える構造物が認定されています。
コンコムでは、たくさんの土木遺産の中から、最寄り駅から歩いて行ける土木遺産をピックアップし、「土木遺産を訪ねて─歩いて学ぶ歴史的構造物─」を不定期連載します。駅から歴史的土木構造物までの道程、周辺の見どころ等、参考になれば幸いです。
みなさんも旅のついでに少しだけ足を延ばして、日本の土木技術の歴史にふれてみてはいかがでしょうか。
認定年 | 令和3年度(2021年度) |
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所在地 | 愛知県岡崎市 |
竣工 | 昭和2年(1927年) |
選奨理由 | 殿橋は、乙川に架かる12径間連続RC桁橋で、昭和2年竣工以来補修を加えながらもスレンダーな形姿を保つ岡崎市街のシンボル的遺産です。 |
今回の歩いて学ぶ土木遺産は、愛知県岡崎市にある「殿橋」です。殿橋は、最寄り駅である名鉄名古屋本線の東岡崎駅から400mほどのところにありますが、今回の行程は、昨年のNHK大河ドラマの主人公・徳川家康公の生地であり居城であった岡崎城やその周辺を巡ることとし、東岡崎駅から名古屋方向に1駅先の名鉄・岡崎公園前駅からStartします。なお、愛知環状鉄道(岡崎駅~高蔵寺駅間を走り、JR東海道本線とJR中央本線とを結ぶ45.3営業キロの第三セクター鉄道)の中岡崎駅が、岡崎公園前駅に隣接していますので、そちらからStart地点に到着もできます。なお、岡崎公園前駅・中岡崎駅前のロータリーには、東海道を城下町に引き入れた、くねくねした屈折の多い道筋「岡崎城下二十七曲り」の西口道案内の石碑が置かれています。一般に城下の道は、外敵には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛するという効果と、街道筋に店舗を並べて旅人たちにとどまらせる経済効果も持たせた、屈折の多い道が常であり、岡崎城下に引き入れられた東海道はその典型になっていました。二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われましたが、現在でもその跡をたどることができるとのことですので、そういう楽しみ方もあるかもしれません。
岡崎公園前駅・中岡崎駅を出発し、愛知環状鉄道の高架下西側の道路(通称「きらり通り」)を北に少し進むと、すぐに「味噌蔵見学」の文字が見えます。この地は、江戸時代初期から味噌づくりを始めた「株式会社まるや八丁味噌」、「合資会社八丁味噌(屋号:カクキュー)」の2軒の蔵元が現在も伝統製法により「八丁味噌」を製造している地です。また、平成18年(2006年)に放送されたNHKの朝の連絡テレビ小説「純情きらり」で、宮﨑あおいさん演じる主人公、有森桜子の祖父が働いていた「山長」の舞台となっており、この近辺では『「純情きらり」ロケ地』と記された小看板をいくつも見ることができます。宮崎あおいさんを始め出演された方々の手形のモニュメントが「純情きらり手形の道」として随所に設置されています。先ほどの蔵見学の表示は「まるや」さんの蔵になりますが、その先の角を左に曲がり、次の角を右に曲がると「八丁蔵通り」になります。
八丁蔵通りは、「大豆と塩のみを原料に木桶に仕込み、職人が円錐状に石を積み上げ重石とし、二夏二冬(2年以上)長期天然醸造で熟成させる」伝統を守り続ける味噌蔵が佇む通りで、狭い路地に黒塗りの板張り壁面と漆喰塗の白い土壁の色彩の対比が特徴的な、昔の風情が残った趣のある通りです。なお、「八丁味噌」の「八丁」とは、この地が岡崎城から西へ八丁の距離(一丁=約109mですので、約870mの距離)にあったことから「八丁村」と言われていた(現在は岡崎市八丁町)ことに由来しています。八丁村は西を流れる矢作川の伏流水による湧き水が豊富で、東海道の水陸交通の要地(すぐそばに矢作橋があり、舟運も盛んでした)でもあったため、兵食として重要視されてきた味噌の製造が始められたと言われています。
今回は、八丁蔵通りの東側に位置する「カクキューさん」の「八丁味噌の郷」にて蔵見学に参加させていただき、資料などが展示されている史料館(明治40年(1907年)に完成した味噌蔵を平成3年(1991年)から改装・活用している)や、現在も使用されている味噌蔵の中などを見学させていただきました。八丁味噌を熟成させている味噌蔵は、温度調節は行わず、自然の温度変化に任せているそうです。史料館は、東西30m余りもある大きな蔵(通称「大蔵」)で、近くを流れる矢作川が氾濫して水が押し寄せた際に、蔵が水に浸からないようにするために、高く積まれた石垣の上に建っているとのことです。1階は味噌の熟成に使われ、2階では八丁味噌の原料となる「豆こうじ」を作る作業が行われていたことなどが、等身大の人形などでわかりやすく示されています。
国道1号に出て東に進み、「八帖」の交差点を過ぎた一つめの角を右に曲がって南に進み、さらに二つめの狭い路地を左に曲がって岡崎城の方に進むと、左側に新田白山神社(にったはくさんじんじゃ)があります。この神社は、永禄9年(1566年:「桶狭間の戦い」の6年後で、家康公が姓を「徳川」に改めた年)に、厄除け、開運、祈とうのため、皇族と血縁の深い源氏の一族新田氏のゆかりの地である「上州の新田」から家康公が勧請したものであると伝えられています。静寂で広い境内には、樹齢600年以上の、天然記念物に指定されている 根囲9.4m、 樹高12.5mの見事な大楠がありますが、その手前にある、自然石を使ったたいへん珍しい小さな鳥居は、昔、家康公がこの自然石鳥居をくぐったら疱瘡が完治したとの故事にならって、現在も毎年6月30日に、厄除けの鳥居くぐりの神事が行なわれているとのことです。なお、自然石鳥居と大楠の間にある石の穴からは、自然石の鳥居越しに岡崎城の天守閣を臨むことができるそうです。
新田白山神社から東に進むと、岡崎公園の西側を南北に流れる伊賀川に突き当たりますが、この伊賀川を渡れば、「日本さくら名所100選」、「日本の歴史公園100選」にも指定されている岡崎公園です。このPoint-3では、岡崎公園内の主な見どころを紹介します。
『岡崎城』
いわずと知れた徳川家康公が生まれた、神君出生の城で、龍にまつわる伝説も多く、別名「龍ヶ城」とも呼ばれています。現在のお城は、3層5階のコンクリート構造として昭和34年(1959年)に復興されたもので、岡崎市のシンボルとして市民に愛され親しまれています。また、平成18年(2006年)には「日本100名城」に選定されています。お城の中は見学することができ(有料)、2階から4階は、ジオラマやプロジェクションマッピングを交えながら江戸時代の岡崎等を紹介する展示室、最上階の5階は、眼下の町並みも含めて三河平野を一望できる展望室となっています。展望室からは、今回のGoalである殿橋もかすかですが確認できました。なお、桶狭間の戦いの翌日から岡崎城に入城するまでの4日間、家康公が滞在した大樹寺は、岡崎城から北に3kmほどの位置にありますが、残念ながら肉眼では街並みに隠れてハッキリと確認することはできませんでした。なお、お城の前には、家康公が亡くなられた元和2年(1616年)4月17日の日付が刻まれた、「家康公遺言碑」が設置されています。(遺言は「私の命はそろそろ尽きてしまうのだが、将軍が、ちゃんとしていれば、私は安心して死ねる。もし、将軍の政道がその理にかなわず、民衆が苦労していることがあったら、他の人に変わってもらうべきである。たとえ、政権が他家に移ったとしても、民衆が幸せならば、それが私の本意であり、恨みに思うことはない。」という、跡継ぎに宛てた内容とのことです。)
『龍城神社』(たつきじんじゃ)
岡崎城のすぐ隣に鎮座する神社です。家康公生誕の朝、城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れ、昇天したという伝説が残るパワースポットで、拝殿の天井には長さ4m、幅2.5m、厚さ40cmの国内最大級の白木彫りの見事な龍が飾られており、出世、開運、安産、厄除けのご加護があるとされています。また、岡崎城側には、龍神が現れた際、この井戸の水が噴出し龍神に注いだと伝えられる「龍の井」があり、出世開運の井と称えられているそうです。
『大手門』
岡崎公園の北側を走る国道1号の「岡崎公園前」交差点そばにある、高さ11m、幅16.4m、奥行6.3mの立派な門が大手門です。この大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として、平成5年(1993年)に再建されたそうです。石垣には地元産の御影石を使用し、入母屋造りの屋根には江戸物本瓦が葺かれています。なお、元々の大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(現在の大手門から北東約200mの位置)にあり、江戸時代の記録によれば「桁行十間(約18m)、梁行二間四尺(約4.5m)」だったとのことです。大手門前には「岡崎公園」と記された石碑があり、そこに「さくら名所100選」などの銘板が置かれているほか、「岡崎城下東海道二十七曲り」と記された大きな石碑もあります。また、「純情きらり手形の道」として、竹下景子さんの手形もあります。
ここでは主な見どころを紹介しましたが、その他にも「三河武士のやかた家康館」(有料。家康公と三河武士の生きざまを展示した歴史館。令和6年(2024年)1月8日までは「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」としてオープン)や、東照公産湯の井戸、東照公えな塚(「えな」とは、へその緒のこと)、しかみ像(三方ヶ原の戦いで多くの家臣を失った家康公が、自戒の念を忘れることのないように描かせた「しかみ像」を基にして制作された石像)、徳川家康公像、松平元康像、本多平八郎忠勝公像、家康公・竹千代像ベンチ、二の丸能楽堂、二の丸井戸、東隅櫓、神橋、花時計、からくり時計など、紹介しきれないほど多数の見どころがあります。詳しくは、本記事の末尾に掲載するLINKから「岡崎公園ガイドマップ」をご参照ください。
岡崎公園の西側を北から南に流れる伊賀川や、南側を東から西に流れる乙川(矢作川最大の支流。菅生川とも呼ばれる)沿いには多数の桜が植えられており、また岡崎公園南西部の一角には「五万石ふじ」と呼ばれるふじ棚があり、4月、5月には桜、ふじと美しい花や香りを愛でることができますが、その岡崎公園南側を乙川沿いに走る市道公園南線(通称、竹千代通り)を東に進むと、菅生神社(すごうじんじゃ)があります。ここは岡崎最古の神社で、日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)により創建されたと伝えられています。御祭神は、天照皇大神・豊受姫命・須佐之男命と、合殿の菅原道真公、徳川家康公になります。松平初代親氏公の祈願をはじめ松平家・徳川家康公ゆかりの神社として、岡崎城内鎮守の守護神とされていました。なお、厄災の除去を祈願する神社大祭は、宵宮7月19日、例大祭20日であり、菅生川(乙川)に鉾船を浮かべて行う壮観な「菅生祭鉾船神事の花火奉納」は、昔は宵宮祭で行っていましたが、現在は岡崎市が8月第1土曜日に開催する「岡崎城下家康公夏祭り花火大会」(令和5年(2023年)は第75回)とあわせて行われています。なお、先ほど通ってきた竹千代通りが岡崎公園西側で伊賀川を渡る竹千代橋近辺には、寺島しのぶさんの手形(「純情きらり手形の道」)の他に、「三河花火 発祥の地」の像も置かれていました。三河花火は日本の夏の風物詩とも言われているそうで、その発祥は、天下統一を成し遂げた徳川家康公が、それまで鉄砲などの軍事用に使われていた火術について、各藩の鉄砲・火薬の製造を厳重に制限する一方で、三河の鉄砲隊だけに火薬の平和利用を命じたことと言われています。それ以後、三河花火は全国でもトップレベルの技術を有するようになったと伝えられており、この花火大会は、三河花火の伝統を受け継いできた花火師の方々が、伝統の金魚花火や打上花火などを披露する、豪華絢爛な花火大会として全国屈指の規模を誇ります。なお菅生神社の境内の、数百年ものあいだこの地を見守る大楠木(昭和20年(1945年)の岡崎大空襲の時、この楠木の直ぐ近くに爆弾が落ちたが不発だったとも言われています)や、寛永15年(1638年)に岡崎城主本田伊勢守忠利が菅生神社本殿を修復した際に寄進した「明神型石鳥居」(高さ271cm、柱間181.5cm、柱径22.5cmで、材質は花崗岩(青石))も見どころです。
「竹千代通り」を東に進むとすぐに乙川に架かる橋に着きます。菅生神社から間近に見ることができる距離ですが、この橋が土木遺産「殿橋」です。最初に橋が架けられたのは正保2年(1645年)で、現在の位置より100mほど西側の位置にあり、当初は「菅生橋」、後に「殿橋」と呼ばれることになったそうですが、明治38年(1905年)に先代の木橋が造られ、その後、昭和2年(1927年)に現在の殿橋(橋長116.2m、幅員16,2m)が完成しています。当時としては最新鋭の技術(鉄筋コンクリート構造)で造られ、中央に複線の市電が走り、その両側に車道、さらにその両側が歩道だったこともあり、風格たっぷりの広い幅員があります。また、橋脚は多柱型式で,多連ゆえに四角い窓が規則的に連なる景観となっているのも珍しく、4隅の橋詰めには、それぞれ「殿𣘺」「昭和二年七月架設」「とのはし」「昭和二年七月架設」と刻まれた御影石造りの、高さ2メートル以上の巨大な親柱が設置されているのが、風格を漂わせています。なお、竣工時には「岡崎市の門戸を飾る最新型の殿橋」として紹介され、市民の熱烈な歓迎を受けたとされています。これまで、御影石製の高欄の鉄筋コンクリート製への取り替えや、単純桁同士の連結による連続桁化などの各種補修が行われてきてはいますが、3年後には竣工後100年を迎える歴史を持ちつつも、竣工当時の意匠をほぼ残したまま現役で存在している「殿橋」は、優美な弧を描く多連の桁をいつまでも眺めていられるような、まさに「殿」の名を冠するにふさわしい、岡崎市民にとってなくてはならない橋として存在し続けています。
今回訪れた愛知県岡崎市は、昨年のNHK大河ドラマの主人公・徳川家康公ゆかりの地です。それは岡崎市の玄関口であり、土木遺産「殿橋」の最寄り駅である名鉄名古屋本線・東岡崎駅すぐの(ペデストリアンデッキを北東方向に進んだ)ところに巨大な徳川家康公像が設置されていることからもよくわかります。この像は、令和元年(2019年)11月に公開された、日本最大級の騎馬像(銅像の高さは約5.3mで台座も含めると約9.5mとのこと)で、家康公が松平から徳川に改姓した25歳当時の姿をモチーフとした、騎馬にまたがり弓を携えた勇壮な騎馬武者像となっています。台座に刻まれた「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)は、「煩悩に穢れたこの世を厭い離れ、極楽浄土を欣んで(よろこんで)心から願い求めること」で、桶狭間の戦い後に、家康公が大樹寺において自害しようとするのを住職が思いとどまらせた言葉とされています。また、八丁蔵通りの西側を北から南に流れる矢作川に架かる、国道1号の矢作橋は、その昔、この矢作橋の上で寝ていた日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)が、通りがかりに頭を蹴った野武士の頭(蜂須賀小六)を咎めて「侘びていけ」とにらみつけた、とされる二人の出会いのエピソードの場所であり、矢作橋の西側北詰にはこのエピソードを記念した大きな御影石造りの「出会之像」(であいのぞう)が設置されています(ただし、矢作橋が架けられたとされる1601年は、関ヶ原の戦いの後になりますので、この話は作り話とされているようです)。
また、殿橋から東側には、400mも離れていない位置に、桜城橋(さくらのしろばし)、明代橋(みょうだいばし)と、2つの橋が架けられています。桜城橋は令和2年(2020年)竣工の歩行者専用の橋ですが、橋面は市内のヒノキ材を用いた板張りで、 幅員19mの広さを持つ,風情あふれる橋となっていますし、明代橋は昭和12年(1927年)竣工と、殿橋に遅れること10年で架けられたゲルバー橋ですが、殿橋よりも径間数が5つ少ない7径間となっています。
名鉄・東岡崎駅へは名鉄・名古屋駅から特急で約30分程であり、名古屋方面に出かけられた時に少し時間に余裕があれば、岡崎へ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
なお、末尾での記載となりますが、東岡崎駅近くで珍しいものを見つけましたので、写真を掲載します。なお、家康公を祀った最初の神社である久能山東照宮(静岡市)にも「家康公御手形 三十八歳、身長約155cm、体重約60kg」と記された手形(左手)がありますが、見つけた手形はひっそりと設置されていました。
地理院地図をもとに当財団にて作成
【今回歩いた距離:約2.0km 岡崎公園前駅~八丁蔵通り~合資会社八丁味噌~新田白山神社~岡崎公園~菅生神社~殿橋】
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