土木学会が平成12年に設立した認定制度──『土木学会選奨土木遺産』。顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的に、500件を超える構造物が認定されています。
コンコムでは、たくさんの土木遺産の中から、最寄り駅から歩いて行ける土木遺産をピックアップし、「土木遺産を訪ねて─歩いて学ぶ歴史的構造物─」を不定期連載します。駅から歴史的土木構造物までの道程、周辺の見どころ等、参考になれば幸いです。
みなさんも旅のついでに少しだけ足を延ばして、日本の土木技術の歴史にふれてみてはいかがでしょうか。
認定年 | 平成13年度(2001年度) |
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所在地 | 岐阜県美濃市 |
竣工 | 大正5年(1916年) |
構造形式 | 単径間鋼製補助吊り橋 |
諸元 | 橋長113m(支間116m)/幅員3.1m(人・自転車専用) |
選奨理由 | 完成当時に最大級で、現在はわが国に現存する最古の吊橋。 |
美濃市駅からまっすぐ伸びる県道296号を100mほど進むと、信号機が設置された県道80号との交差点に着きますが、その前方左側にあるのが「旧名鉄 美濃駅」(国登録有形文化財)です。平成11年4月に名鉄美濃町線の新関駅(関市)~美濃駅(美濃市)間が廃止されたのですが、大正期の貴重な近代遺産として、当時の駅舎・プラットホーム・路線がそのまま保存されています。またホームには、「モ512」「モ601」などの懐かしい車両も展示されているほか、駅舎の中には、活躍していたころの車両の写真や座席シート等が展示されていますので、鉄道ファンの方は必見です。無料で見学できますが、日中しか開放されていないようですので、詳しくはWebでご確認ください。なお、駅舎内には、「美濃ゆめまち会」(美濃市観光協会内)作成の「美濃マップ」が置かれていましたので、このマップで確認しながら散策できます。また、駅舎の近くには、ご当地美濃市の出身である歌手・野口五郎さんのヒット曲「私鉄沿線」の歌碑が、デビュー50周年を記念して設置されていました。
旧名鉄美濃駅からさらに150mほどまっすぐ進むと「広岡町」交差点につきます。ここをさらにまっすぐ進むと、「うだつの上がる家が並ぶ町並み」エリアに入っていくのですが、ここでは交差点を右折し50mほど進み、左にある細い道を入った先の、浄土真宗本願寺派の寺院である「教泉寺」を訪れます。ここは第二次大戦の中で外交官として、沢山の尊い命を救った杉原千畝(すがはらちうね)氏の生誕地です。杉原氏は、第二次世界大戦の最中、リトアニアの臨時首都カウナスの日本領事館で領事代理を務めていた際、ナチスドイツ、ソ連の迫害で住むところを追われたユダヤ避難民に日本通過ビザを発給し、数千人の命を救ったことで特に有名です。「人として当たり前のことを行ったまで」と、杉原氏がビザ発給について多くを語ることはなかったとのことですが、その後、彼に救われた元ユダヤ難民達が杉原氏の所在を探し出し、イスラエルを始め数多くの国や機関から、その人道主義的行為に対して顕彰された、日本が誇る外交官でした。杉原氏は、税務官吏であった父親の異動のために各地を転々としたそうですが、杉原氏が生まれたときにはこの教泉寺の借間に暮らしていたということです。その借間は現存しておらず、現在はその場所に庫裏が建てられており、お寺の前に「生誕地案内板」があるだけになっています。
教泉寺から細い道を少し進んだ先の三叉路を右に折れ、さらに進むと、国の「伝統的建造物群保存地区」(種別:商家町)に選定(平成11年(1999年)5月)された「うだつの上がる町並み」エリアです。「うだつ」(卯建)とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことです。なお、「うだつ」は裕福な家しか造ることができなかったことから、「うだつを上げる」「うだつが上がらない」等の言葉は、この「うだつ」をあげる(取り付ける)ことができるか、できないか、ということを語源としています。また、「卯」の字が用いられるのは、「隣家との境に「卯」の字型をした防火壁をつける」、「卯(うさぎ)の耳のような防火壁をつける」ということが由来になっているようです。
なお、美濃市は江戸時代の商人の町で、この「うだつ」が多く残っていますが、もともとは戦国武将の金森長近が、関ヶ原の戦い後、美濃国武儀郡(むぎぐん)上有知(こうずち:現在の美濃市一帯)等の領地を加増され、慶長11年(1606年)の小倉山城(おぐらやまじょう)の築城とともに、その城下に新しい町を作ったことが始まりで、独特の目の字型の街路構成ともあいまって、美しい歴史的景観が良く保たれています。なお、金森長近は、関ヶ原の戦い以前には、領地として与えられた飛騨国において、高山城を築くと同時に城下町の整備も行い、観光地として名高い現在の高山市の基礎を築いた武将でもあります。
このエリアの随所に設置されている「うだつの町並みマップ」の案内板が示すように、うだつのあがった数多くの建物があり、ここでは、そのうちの代表的な建物と、その建物それぞれに付けられた木製の説明板の主な内容を「」書きで記載します。(※ 注書きは筆者)
『小坂家住宅』(国重要文化財)
市街地で唯一、国指定重要文化財に指定された建物。「母屋から後ろに続く酒蔵まですべて江戸時代の貴重な建築物。「むくり屋根」(注:日本独自の屋根の建築様式で、柔らかな曲線を描いた屋根)の町家としても珍しく、上方の影響を受けており、卯建飾りは鬼瓦を欠く古風なもの。元来は三本卯建だったが、明治時代に中央の卯建を取り除き、現在の姿になった。」
『旧今井家住宅』
美濃の代表的な商家の一つ。「江戸時代中期の、古い形式のうだつ造りの建物。間口は15.8m、奥行も15.8mあり、8畳間9つ取りを基本形にした最大規模の家屋。今井家は、江戸時代から紙の原料商として繁栄をつづけ、江戸末期には庄屋を、その後は町の諸役を勤めた名家だった。また、中庭の「水琴窟」(注:日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛け)は、環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。」
なお、奥には美濃市の古い歴史、文化、造形物に関する史料を展示した美濃史料館やうだつ蔵、にわか蔵があり、拝観することもできます。(有料)
『大石家住宅』
「建築年代がはっきりした建物の一つで、明治時代(1872年)に建てられたもの。卯建の飾りは江戸時代よりも一層豪華となり、大きい鬼瓦、太くて装飾いっぱいの破風瓦、大きな懸魚(注:「げぎょ」とは、屋根の妻において、棟木や母屋桁(もやげた)、軒桁の木口を隠すために破風板(はふいた)の下に取り付けられた装飾用の材のことで、魚を吊るしたような形に似ていたことからこの名がついたと言われている)がついて、明治時代の卯建の特色をよく表している。この建物が建築されてから10年後には、隣家の屋根との関係で大きな問題を抱える卯建(注:うだつは隣家の敷地に半分かかること)の家は建てられなくなった。」
『時代軒』
「江戸時代末期の建物であり、卯建の飾りも明治時代への変化に繋がる形式となっている。鬼瓦の上り藤はこの家の家紋であり、破風、懸魚の飾りも江戸時代として最も発達した形式となっている。この建物が面する魚屋通り(注:目の字型の街路の延長が短い方の通りの一つ)の狭い幅が本来の通り幅であり、一番町、二番町の通り(注:目の字型の街路の延長の長い通り)は、享保八年(1723年)にこの地で大火が発生した後に拡幅されたものである。」
なお上述の通り、うだつは隣家の敷地に半分かかる問題を抱えていたことから、一軒おきにつくるのが原則であったのですが、隣家同士でうだつの装飾美を競っている建物や、うだつのあがった建物が連続している「うだつ連棟」もあります。末尾のAlbumに写真を掲載しておきますので、ご覧ください。
「うだつの上がる町並み」エリアから、殿橋交差点で国道156号を横断して美濃橋に向かいますが、その手前にあるのが「美濃和紙あかりアート館」です。美濃市では、1300年以上続く手すきの美濃和紙作りが地域の産業として継承されており、「美濃和紙」は昭和60年(1985年)に国の伝統的工芸品に指定されています。福井県の越前和紙、高知県の土佐和紙と並び「日本三大和紙」のひとつとしても有名です。なかでも、一帯で作られる手すき和紙製品の1割ほどしかない「本美濃紙」は、本美濃紙保存会員が決められた原料と製法ですいた限定の品で、昭和44年(1969年)に国の重要無形文化財に指定されているほか、平成26年(2014年)に、その手すきの伝統技術がユネスコ無形文化遺産に登録されています。美濃和紙は、長良川・板取川の美しい水に育まれて受け継がれてきた、柔らかく、繊細でありながら強靭な美しい和紙であり、なかでも光に透かしたときの美しさは随一で、古くから障子や提灯に重宝されてきていますが、その薄さと丈夫さ、美しさが共存している特徴から、現在は多くの用途に対応した多様な和紙が生産されています。この「美濃和紙あかりアート館」では、その美濃和紙を活用した美濃和紙あかりアート展(「美濃和紙」の再生と「うだつの上がる町並み」の活性化・ブランド化を目的として、平成6年(1994年)に美濃市観光協会が美濃市制40周年記念事業として開催され、以来四半世紀を超える期間、実施されているイベント)の歴代の入賞作品を展示しています。
また、全国から多数の観光客が訪れる「あかりアート展」当日の様子も再現してあり、江戸時代からの情緒を残すうだつの町並みが暗闇にたたずむ中で、柔らかく、かつ美しく灯る美濃和紙を用いたあかりのオブジェたちがいくつも町並みに展示され、「闇とあかり」「光と影」のおりだす幽玄の美を映し出す、素晴らしい雰囲気を感じることができるそうです(入館:有料)。なお、アート館の建物は、登録有形文化財に指定されています。
殿町交差点から進むと、小倉山城跡地である小倉公園があります。現在の小倉公園の上の広場が本丸、下の広場が二の丸、図書館のある所が三の丸であったと考えられているそうですが、入口には「史跡 小倉山城址」の石碑と、立派な角櫓があります。「うだつの上がる町並み」から小倉山をみると、こんもりと盛り上がって、登るのがキツそうだと感じたのですが、石碑から本丸跡地の展望広場に造られた“お城風”の展望台までは、少し急な道を10分ちょっと歩くぐらいで着くことができました。なお、築城した長近の死後、後嗣の長光が幼死したために金森家は断絶し、城は破却された(その後、尾張藩領となって天明2年(1782年)から城跡に代官所が置かれていた)とのことです。この展望台からは、周囲360度を眼下に見ることができますので、登ってくるだけの価値は十分あります。
「うだつの上がる町並み」を含む美濃市の街全体は、近くの樹木が一部、視界を遮りはするもののよく見渡せますし、その逆方向には、ゆったりと流れる清流長良川や、今回Goalに設定した「美濃橋」(赤い橋桁)、さらには、その上流300mほどのところに昭和31年(1956年)に架けられた「新美濃橋」(青い橋桁)も一緒に眺めることができました。この360度の見晴らしを二つの動画に撮りましたので、Albumに掲載しておきます。なお、小倉公園一帯にはソメイヨシノやヤマザクラなど約1000本の桜があり、桜の名所として知られていますので、春の「さくらまつり」期間中は多くの人出で賑わうそうです。
小倉山城址から長良川に降りてくると、長良川に沿って世界かんがい施設遺産(※)の「曽代用水」(そだいようすい)が流れており、川湊公園が整備されています。曽代用水は、美濃市の曽代地内で長良川から取水し、美濃市・関市の農地約1,000haをうるおす幹線延長約17kmの農業用水路です。美濃~関地区は、長良川より標高が高いため干ばつに苦しめられていましたが、江戸時代初期の寛文3年(1663年)、この地に移住してきた尾張藩出身の吉田吉右衛門、林幽閑と、地元の豪農の柴田伊兵衛の三氏が、上流の扇頂部から取水して水路で水を配る計画を作り、私財を全て費やして難工事の末に計画から約10年の歳月を経て完成させたもので、建設から約350年以上も地域の農業を支える重要な施設として維持されてきたこと、江戸時代に農家主導で建設された全国でも珍しい用水であることから、平成27年(2015年)に岐阜県で第1号の世界かんがい施設遺産として登録されたものです。なお、川湊公園からもう少し下流には、立ヶ岩という硬い岩盤を掘削された洞門と、岩盤掘削跡もあるとのことですが、残念ながら今回は立ち寄れませんでした。
※世界かんがい施設遺産とは、建設から百年以上経過した、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を登録して守っていくために、国際かんがい排水委員会が創設した制度で、令和5年(2023年)11月現在、世界19ヶ国で161施設が、日本国内で51施設が登録されています。
川湊公園から少し上流方向に行けばGoalの美濃橋ですが、長良川の川湊であった上有知湊(こうずちみなと)跡地に寄るため、下流側に少し進みます。上有知湊は、金森長近が開いた湊で、江戸時代から明治時代までこの地方の物流と交通の中心として栄えた場所で、川沿いには商店や茶店、船頭屋敷が軒を並べていたとのことです。この川湊は、明治の終わりに電車が開通して廃止されましたが、その跡地には、船着場跡の石畳と住吉型川湊灯台(かわみなととうだい)が残っており、県の指定文化財になっています。特に、高さ約9mの川湊灯台は水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられ、夜ごと川面を照らしていたとのことで、川湊の灯台として現存する全国的にも珍しい貴重な建造物です。また、文化10年(1813年)初冬に、頼山陽と、山陽門下の高弟である美濃国出身の村瀬藤城の二人が上有知湊で別れを惜しんだ詩の碑が建てられています。
川湊灯台から長良川を200mほど上流に進むと、Goalの美濃橋です。遠くから眺めても近くから見ても、本当にきれいな橋です。吊橋を支える主塔は鉄筋コンクリート製、床板は木製であり、鋼材でできた補剛トラスがあるのが特徴の、現存するもっとも古い近代つり橋で、国指定重要文化財に指定されています。また、平成28年度(2016年度)から令和2年度(2020年度)まで実施された大規模修繕工事は、高い技術力に基づき歴史的価値の保存と社会インフラ施設としての安全性の確保を同時に実現したパイオニア的事業として、土木学会田中賞(令和3年度)及び全建賞(令和3年度:道路部門)を受賞しており、美濃橋の技術的・歴史的価値が見事に保全されています。橋の位置は、長良川の川幅が最も狭く、小倉山裾部の岩盤が迫り出す場所として選ばれたそうですが、吊り橋のケーブルが、左岸側(小倉公園側)は地山の岩に定着されていますが、右岸側はアンカーレイジを設置して定着させているのが、平野部に開けた地点に設置された吊り橋であることを示しています。昭和40年(1965年)頃までは小型乗合バスなども通行していたそうですが、上流側に新美濃橋を建設したこともあり、現在は人と自転車の専用橋となっています。なお、国重要文化財安全確保のため、通行は50名以下に制限されています。
今回は、岐阜県美濃市にある美濃橋を訪れました。美濃市は「うだつの上がる町並み」を含め、全体が静かに落ち着いた街という印象を受けました。また小倉山からの眺めはとても素晴らしく、眼下にゆったりと流れる長良川の風景も秀逸で、金森長近が隠居城としてここに築いた気持ちがわかる気がしました。なお、美濃市にはすでにご紹介した「本美濃紙の手すき技術」、「曽代用水」のほかに、「清流長良川の鮎」が世界農業遺産に登録されており、3つの世界遺産を有し、豊かな自然に育まれてきた文化が世界に認められた街でもありますので、春の「さくらまつり」や、秋の「美濃和紙あかりアート展」の時期に限らず、ゆっくりと時代を感じる時間を過ごすのにお勧めです。なお、美濃市観光案内所「番屋」は「うだつの上がる町並み」のなかにあり、散策に便利な観光パンフレットが揃っているほか、授乳室や手荷物預かりサービス、レンタサイクル等を利用できます。さらに「歴史まちづくりカード」を配布しているほか、案内所内で簡単なアンケートに記入すれば、美濃和紙のあぶらとり紙もプレゼントでいただけます(令和5年12月1日現在)。
また、今回Start地点とした美濃市駅へは、鉄道を利用する場合には美濃太田駅経由となりますので、岐阜駅から向かう場合には少し遠回りになります。その他の交通手段として、JR岐阜駅発の路線バスで1時間ほど揺られながら美濃市駅へ向かうこともできます。JR岐阜駅の北口駅前広場には、金箔3層張りの巨大な「黄金の信長公像」(高さは台座が8m、像が3m)が置かれているほか、大正15年(1965年)に美濃電気軌道(名鉄岐阜市内線・美濃町線の前身)が日本車輌で製造した5両(「モ510」~「モ514」)のうちの「モ513」が静態保存されています(車体は当時流行していた正面5枚窓の半流線型に、楕円形の戸袋窓を採用しており、「丸窓電車」として親しまれていた車両です。美濃市の旧名鉄美濃駅に保存されている「モ512」もこの5両のうちの1両です。)ので、時間に余裕がある方は、JR岐阜駅で途中下車してみるのもお勧めです。
地理院地図をもとに当財団にて作成
【今回歩いた距離:約1.8km 美濃市駅~旧名鉄美濃駅~杉原千畝生誕地~うだつのあがる家が並ぶ街並み~美濃和紙あかりアート館~小倉公園~曽代用水~川湊灯台~美濃橋】
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