2015/04/23
東日本大震災から四年が経過し、インフラの復旧・復興も確実にカタチになってきた。しかし、未だにつづく余震、南海トラフ大地震の脅威や局地的豪雨など、災害への備えは十分とはいえない。「防災を考える/第二回」では、前東京都建設局河川部計画課長・舛原邦明氏に、3.11後の東京都の防災対策、特に低地河川の防災対策についてご寄稿いただいた。2回に分けて紹介する。
東京都の地形は東西に細長く、東部の低地、中央部の丘陵地と台地、西部の山地に3分され、地域ごとに特徴的な地形となっている。東京都の防災対策は、その地域特性にあわせたもので、東部低地帯では高潮、地震や液状化対策、中央部の土砂災害対策、八王子方面から多摩丘陵から山の手台地にかけては大中小河川の対策、集中豪雨や台風等による急傾斜地崩壊や洪水への対策等である。土砂対策事業では、急傾斜地崩壊や地すべり対策の予防事業、土砂災害防止法に基づく警戒避難体制の整備、開発・構造規制を実施している。また、ゲリラ豪雨等に対する都市水害対策も策定された。ここでは、自治体のゼロメートル地帯の高潮対策の実例として、東京都の低地河川の防災対策を紹介する。
東部低地帯は、江東、墨田、江戸川、葛飾、荒川、大田区の軟弱な土砂が厚く堆積した沖積層で、荒川、隅田川などの大きな河川と支川が縦横に流れている(図2)。図3)に経年の地盤沈下を経た、現在の地盤高を示した。
写真1)は1873年(明治6)に撮影された隅田川と現在の様子を両国橋付近で比較したものである。現在は、周辺にビルが立ち並び、首都高速が川沿いを走っているが、下流側を臨んだ風景で堤防もほとんど築かれておらず、河川際が広々としている。
写真2)は明治時代と現在の向島の桜橋付近を比較した写真である。現在の隅田公園付近で、杭が打たれた柵があり、土手(高さ3.7m)の上には桜が植えられている。形は現在とほとんど変わっていない。土手はかなり低い。土手の桜は8代将軍吉宗が1717年(享保2)頃に隅田川沿いに桜を植樹したのが始まりである。土手の高さは当時の計画高であったが度々水害に襲われた。1955年から1965年頃の間、大田区の一部と京浜東北線から千葉側の東部低地部は、台風の度に浸水した。
各種防止法が整備される1970年~1975年頃まで、東部低地帯では地盤沈下が進んでいた。原因は、大正から昭和にかけての工業活動による地下水の大量汲み上げで、1967年以降の深度1,000mを超える天然ガスの大量採取も地盤沈下に拍車をかけた。江東区南砂2丁目では、4.6m超の沈下例がある(図4)。地盤沈下は地下水の揚水規制等により、1975年頃以降は急速に減少し、現在はほぼ停止している。
東京湾は1日に2回干満を繰り返しているが、満潮面以下のゼロメートル地帯に約150万人が居住している。東部低地やゼロメートル地帯は、元々工場地帯として開発されたが、現在はマンションが数多く建造されて地域人口が増加している。この地帯は、荒川か隅田川の一箇所の決壊で、水深4mとなる。決壊を防ぐため、地盤より水面が高い天井川となる荒川、隅田川の堤防整備を進めてきた(図5)。
戦後最大の高潮被害(1949年 キティ台風)の被災地域は、河川が地盤より高い江戸川、荒川、新中川、隅田川に囲まれた江東三角洲(江東区、江戸川区、墨田区、葛飾区)で、江戸川区の地盤が最も低い。大田区も一部低地があり、水害を受ける地域は殆どこの地区である(図6)。
高潮は、通常潮位が台風や低気圧来襲時の海面気圧の低下による海水面の上昇と向岸風による海水の吹き寄せ等により、潮位が高くなる現象である。海面の高さは、気圧と海水の水圧の均衡がとれた状態の水位で、1気圧で海抜0m時に気圧が下がると水圧が海面を押し上げる(図7)。
東京湾に注ぐ河川に高潮が遡ると背後地の海抜ゼロメートル地帯に甚大な浸水被害を引き起こす危険がある。高潮による被害は1955年から1965年頃まで続いた。防潮堤の設置は1934年頃から行われていたが、戦争等で中断し、東京都の高潮対策事業(防潮堤建設)が本格的に実施されたのは、1955年以降である。
1959年の伊勢湾台風の高潮被害は、日本最大で死者4,697名、行方不明者401名、負傷者は38,921名に達した。
従来、防潮堤防は段階的に3.9mの高さで設置されていたが、伊勢湾台風以降は、最悪の台風進路を想定し、その時の最高潮位を基準にした満潮面A.P.+2.1m、偏差3mと想定し、防潮堤高A.P.+5.1mで設置することとした。図8)に、台風進路と潮位の推定、水門開、閉の潮位を示した。
※A.P.(Arakawa Peil)とは、明治6年10月、中央区新川2丁目先の隅田川に設置された霊岸島量水標の最低潮位で定められ、零位を基準とした高さの表示方法で、荒川水系に使用されている。
偏差とは、気圧の変化と風の吹き寄せにより海面が上昇する高さであり、台風は左回りに旋回するので、川の向きによって高さは一定ではない。城南方面は2m、2.5mの高さの防潮堤があるが、隅田川、荒川は、偏差3mの規準に則って整備されてきた。
高潮に対する安全を確保するため、東京都では防潮堤や水門等の高潮膨張施設の整備を進めている。東京都建設局が持っている水門は13、排水機場や樋門は21施設となる。防潮堤全長168km区間を高くする計画が実施され、2013年度(平成25年度)で93%の整備率、高潮に対する対策はほぼ完成した(図9)。伊勢湾台風以上の台風襲来では計画の見直しが必要であるが、現時点でその規模の台風の襲来は想定していない。
隅田川の改修事業の歴史では、1963年(昭和38)〜1975年(昭和50)の12〜3年の間に集中して、いわゆる「カミソリ堤防」と呼ばれる防潮堤を全区間にわたり整備した。その後、1995年(平成7)の阪神淡路大震災を経験し、従来のカミソリ堤防だけでは地震への対応は困難との判断から、耐震対策としてコンクリート防潮堤前面で地盤改良の上根固めを行い、上面を一般に解放する隅田川テラスの整備で耐震性の向上を図った。これは東京都型のスーパー堤防事業というべきもので、民間が開発する際に開発計画に合わせて盛土を作っていく。民間事業者と話をして折り合いがつけば盛土をする方法で、現在隅田川の約3割がその手法で整備されている(図10)。
千住地区から上流の両側2kmのカーブのあるエリアでもスーパー堤防を整備した。隅田川を含めた5河川でスーパー堤防を進めているが、隅田川が開発等もメインで、一番進んでいる。スーパー堤防の整備以前は、カミソリ堤防があり裏に管理用道路があったが、通路が低くて防潮堤で遮られ海も川面も見ることはできなかった。民間の開発に合わせた形で整備し、管理用道路からも水面が見え、テラスに降りると水辺に近づけるようにしたため、開放的な空間ができた。そのため業務用ビルのある地帯では、昼はランチをとったり、散策を楽しむ人の姿が見られるようになった。また、堤防は液状化も考えて整備している(図11)。
隅田川の白鬚地区は、都立公園をスーパー堤防上に整備し、12万人の広域避難広場になっている(図12)。隅田川テラスでは、高潮が伴う台風が来た時には、A.P.2.5mくらい水位が上がることを想定して整備している(図13)。
江東三角地帯とは、周囲を隅田川、荒川、東京湾に囲まれる面積約45km2の地域のことで、約60万人の人々が住んでいる。この地域は、過去多くの災害に見舞われてきており、現在も工場、商店と住宅の入り混じった低層過密地帯が多く、防災性の向上や環境の改善が必要となっている。
東京都建設局では、江東三角地帯を、周辺の地盤高や河川利用面から概ね東西を2分し、それぞれに適した方式で整備を実施している(図14)。地盤が特に低い東側地域では、扇橋閘門を設置し周辺河川から締め切り、常に水位を低く保つ水位低下方式で整備をしている。2度にわたる水位低下を実施し(第1次:A.P.±0.0m、第2次:A.P.-1.0m)、その後河川環境に配慮した河道整備を実施している(図15)。
一方、比較的地盤が高く、船の行き来がある西側については、既存の護岸を補強する耐震護岸方式により整備を行っている。平成25年度末までに、東側河川は71%、西側河川は74%の整備が完了している。
この江東内部河川は、元々は江戸時代初期以降の水路の開削と湿地の埋め立てで生み出された運河である。地図(1844年〜1848年の弘化年間)を見ると(図16)、小名木川は横で、大横川や横十間川が縦に流れているが、当時は江戸城から見て縦か横かということで川の名が付けられたからである。小名木川は重要な船運ルートであり、行徳の塩を運んだ塩の道でもあった。塩の道に相応しいグレードの高い、かつ環境に配慮した耐震対策を含んだ再生整備を進めている(図17)。
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