2015/01/29
青山俊樹理事長(以下 青山)
「本日はお忙しいところありがとうございます。今日は、越智局長に首都圏の防災の現状と課題、今後の国土交通省 関東地方整備局の取組についてなど、わかりやすく端的にお話いただければなと思っています。よろしくお願いします」。
越智繁雄局長(以下 越智)
「それでは首都圏の防災の現状と関東地方整備局の取組をお話しする前に、まず関東平野の災害と防災の歴史的経緯について、その背景も含めてお話させていただきます」。
越智:「関東平野が現在の地形になるには、数十万年の長い年月がかかっています。氷河時代には、気候が寒冷となり氷河が発達し、海水面は現在より100m以上も低下しました。この時に、利根川、鬼怒川などにより洪積台地(こうせきだいち)は深く浸食されました。その最後の氷河期が訪れ海面が大きく下がっていたのは、今から5万年前~2万年前頃で、その後、全世界的に気温の高い時期になり海面上昇(海進(かいしん))がみられました。そのピークは6千年前~5千年前で、関東地方の海は、今よりずっと奥深く現在の渡良瀬遊水地付近まで入り込んでいました。これを物語るものとして、渡良瀬遊水地周辺には多くの貝塚が発見されています」。
「海面上昇時には、上流から流れてきた土砂が氷河期に浸食された土地の上に堆積し、現在の沖積平野(ちゅうせきへいや)としての関東平野が形成されました。この関東平野を形成したのが利根川、渡良瀬川、荒川などです」。
「江戸時代以前の利根川筋は、主に大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)の流路を流れ、現在の隅田川筋から東京湾に注いでいました。そして、渡良瀬川は、現在の江戸川筋を下り東京湾に注いでいました。さらに鬼怒川は小貝川を合わせ、常陸川(ひたちがわ)と合流し、当時、香取海(かとりのうみ)といった利根川下流部から銚子で太平洋に注いでいました」。
青山:「江戸時代前は利根川、渡良瀬川、そして鬼怒川はそれぞれ独立して流れ、利根川、渡良瀬川は江戸湾(東京湾)に注ぎ、鬼怒川は太平洋に注いでいたわけですね。現在の各河川の流れとは随分と違うような気がしますね。今のような河川の流れになったのは、徳川家康の功績だと聞いていますが」。
越智:「そうですね。1590(天正18)年、江戸に入った家康はその風景を見て驚愕したのと同時に、今は未開発だけれども何かをすればきっと変わると、そう考えて利根川の付け替えに着手したようです。本格的な利根川の付替え(利根川の東遷)の始まりは、1594(文禄3)年の会の川(あいのかわ)の締め切りだといわれています」。
青山:「関ヶ原の戦いの前ですね」。
越智:「この工事は、江戸を利根川の水害から守り、新田を開発することを主な目的にしたものと考えられますが、舟運を開いて東北と関東との交通および輸送体系を確立することも目的とされていたようです。工事は上流で二派に分かれていた利根川のうち、会の川(あいのかわ)を締め切って 一本化し、現在の渡良瀬川の下流に落とすことから始まりました。その後、幾度もの開削を経て、利根川を渡良瀬川に合流させました。同時に、現在の栗橋(くりはし)(現久喜市(くきし))から常陸川(ひたちがわ)までの間の台地も新たに開削し、利根川と常陸川は結びつけられました。新河道は掘り下げた土がローム層の赤土だったことから『赤堀川(あかほりかわ)』と呼ばれました。このような大工事によって、利根川の流れは東に変わり、それまでの東京湾へ向かう流れから、現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになったわけです」。
越智:「このような経緯で利根川の東遷が行われ、広大な関東平野の土地利用が可能になったわけです。そして江戸時代のもうひとつの大きな話が荒川の西遷です。荒川も江戸の街に直接入り込んでいたので、これを何とか江戸の外の方に移したいということで、荒川の西遷が行われたわけです」。
越智:「かつての荒川は洪水のたびに氾濫を起こす『荒ぶる川』として認識されていました。その中でも荒川扇状地の扇端(せんたん)に位置する久下(くげ)地点は、流路が変わりやすく洪水に対して非常に不安定な地域でした。そのため、この地点で流路の付け替えが、1629(寛永6)年に行われました。現在の元荒川(もとあらかわ)筋の流れを久下(くげ)地点で締め切って和田吉野川(わだよしのかわ)へ落とし込み、入間川(いるまがわ)筋へ流すことにより、荒川の水を現在の隅田川(すみだがわ)を経て東京湾へ注ぐようにしたものです。荒川の付け替えの目的には諸説があります。例えば、幕府にとって重要な街道であった日光街道と中山道(なかせんどう)の防備も含めた治水対策とする説や、物資輸送の重要な手段であった舟運の整備を目的とする説、さらに農業用水の取水、水路の安定化や水田の開発を目的とする説などがあります。荒川には中山道が通っていまして、当時は五街道が大変重要な交通手段ということで、安定して行き来ができるように氾濫域を制御するというような効果もあったと思います」。
青山:「家康が江戸を見て、ここまでやろうという構想を建てたのはすごいですね。家康は鷹狩りをやっていたと史実にあるでしょ。もしかしたら地形を見ていたのかもしれないですね。厳密に測量しているわけじゃないけど、こういう所は湿地帯だな、ここは水を抜く工夫をすれば良い土地になるなとかね。そういうものを見ていたんじゃないかなと思いますね。ものすごく土地というものに対して注意力を発揮してられますよね」。
越智:「そうですね。大河川の東遷を思いつくには、相当地形が分かってないとできませんよね。また、人が住んだり生活していくとなると、要るのが水。洪水は要らないけれど、生活の水、産業に使う水は絶対に必要です。水があるかどうか、という点では、江戸は間違いなく水のある地域でしょう。次は燃料が要ると。当時は電気もガスもありませんので、基本的に薪が燃料となります。江戸時代以前に都があった京都や奈良とかには山にたくさんの樹木があって燃料の塊があったわけです。たぶん家康の頭には、江戸に大きな街を作るためには、水資源や燃料資源が必要であることも描かれていたんだと思います。」
青山:「そうですよ。今だから図面を見られるから分かるけど、家康の時代はこんな測量技術もなかったわけでしょ。全体の地形を頭に思い浮かべることができるというのはものすごい能力ですよね。天才だなぁ。戦ばっかりしてきたからね。あそこをこう行けばこうなっているはずだ、とかね。それを見る目が発達していたんでしょうね」。
越智:「今の首都圏の発展は、このようなポテンシャルを持った土地を更に発展させるためのいろいろな仕掛けを家康が作り、それに続いた人たちがその流れを止めること無く取り組んだ結果でしょうね。家康だけで終わっていたら完成してないわけで、後々の人が先人がやってきたことをきちんと引き継いで、それをさらに次の世代に良い国土、良い財産として繋いでいったということですよね」。
越智:「発展を続ける江戸では、市街地を守るために洪水対策が行われました。その結果、江戸の街はますます発展しましたが、一方で、その上流側では氾濫の頻度が高まりました。このため、農村では長い間、洪水と闘わなければなりませんでした。江戸を守るための日本堤(にほんづつみ)、隅田堤(すみだつつみ)の成立過程は必ずしも明瞭に解き明かされてはいませんが、江戸市街地を洪水から守るために築堤されたといわれています。日本堤は1693(元禄(げんろく)6)年の築造といわれ、隅田川と上野の台地から延びる微高地を延長480間(860m)に渡り、高さ10尺(3m)、幅4間(7.2m)でつないだものです。浅草(あさくさ)から三の輪(みのわ)まで続いており、吉原(よしわら)への通い路としても利用されました。隅田堤の築堤は、諸説ありますが16世紀後期の築造といわれています。隅田川の日本堤・隅田堤が接近する部分は、堤防が漏斗状(ろうとじょう)に狭窄部(きょうさくぶ)を形成していまして、日本堤の上流側を氾濫地帯として、下流へ流れる量を制御し、洪水の調整を行っていたと考えられます。
なお、規模の大きな洪水の場合には、右岸側の日本堤よりも左岸側の隅田堤の方が決壊し易い状況にありました。こうした状況は、荒川放水路開削まで続き、明治29年の洪水の際には、隅田堤を人工的に決壊させて、東京の市街地が守られました」。
越智:「江戸時代より、農村地帯としての発展を遂げてきた現在の隅田川周辺も、明治に入ると大日本帝国の都、すなわち帝都の一角としての発展を遂げていきます。帝都建設の過程では人口増加とともに、市街地拡大が進みました。荒川下流部(現在の隅田川)の土地利用も徐々に変化し、多くの工場が立地していきました」。
「荒川(現在の隅田川)沿川では、頻繁に洪水が発生していましたが、明治元(1868)年~明治43(1910)年までの間に、床上浸水などの被害をもたらした洪水は10回以上発生しています。その中でも、特に明治43年の洪水は甚大な被害をもたらしました。東京では、それまで農地であった土地利用が工場や住宅地に変化したことによって、洪水の被害が深刻化していきました」。
「この明治43(1910)年の洪水被害を契機に、抜本的な治水対策として荒川放水路事業が明治44(1911)年に着手されました。荒川放水路は、延長約22km、幅約500mで、総工事費は約3,150万円※、掘削土量は2,180万m3(東京ドーム18杯分)という大規模な工事でした」。
「また、放水路の開削工事は、広大な用地も必要でした。工事で移転を余儀なくされた方は、1,300世帯にもおよび、民家や田畑をはじめ、鉄道、寺社なども含まれています。住民・国民の理解と協力があって、荒川放水路が完成したのです。また同時期に、江戸川放水路も開削されています。大正5年に着工し、大正8年度に竣工しましたが、行徳(ぎょうとく)より東にほぼ直線で約3kmの放水路を開削し、洪水を分流することとしました」。
青山:「明治43年という時代は、フランスではすでに地下鉄が走っていたんですね。そういう意味では、治水安全度の違いが街の発展に大きく関係しているんだと思いますね。フランスのように河岸段丘にできている街は安定して街づくりができます」。
「フランスの人口10万人くらいの街なんですが、ものすごく立派な地下駐車場があるんですよ。『これはどうやって作ったのか?』と聞いたら岩塩を取ったあとだと言うんですね。地盤はいいですし、地震もありませんし、そういう意味じゃ日本はハンデがありますよね」。
※米価(政府買入価格)を比較すると、明治44年6.16円、平成15年13,748円(いずれも60kgあたり)
越智:「昭和22年のカスリーン台風は、戦後間もない首都圏に、広範囲にわたって壊滅的な被害を与えた利根川を代表する洪水で、戦後はもちろんのこと、大正・昭和期を通じて最大の洪水です。カスリーン台風の接近に伴い、9月13日から激しい大雨となり、利根川上流域では15日夜半まで降り続き、特に鬼怒川上流域、渡良瀬川上流域などでは、総降水量は400mm以上に達しました」。
「9月16日0時20分に埼玉県東村(あずまむら)(現在の加須市(かぞし)(旧大利根町(おおとねまち)))で利根川本川の右岸の堤防が決壊し、氾濫水は東京に到達し、葛飾区、江戸川区の大半が水没ました。この氾濫による浸水面積は約440km2にも及び、浸水深が2m以上となったところも多く、東京都金町(かなまち)・平井付近の低地部では十数日間も浸水したところもありました。被災者は約60万人に達するなど甚大な被害となりました」。
全・半壊・一部破損住家数 | 9,298棟 |
---|---|
浸水家屋数 | 38万4743棟 |
死者 | 1,077人 |
行方不明者 | 853人 |
「これは、明治43(1910)年の洪水以降、連続堤(れんぞくてい)によって整備してきた利根川本川で初めて破堤した洪水となりました」。
越智:「戦後、昭和22年9月のカスリーン台風による大洪水を受け、昭和24(1949)年に「利根川改修改訂計画(とねがわかいしゅうかいていけいかく)」が策定され、大規模な引堤、河道改修、渡良瀬遊水地等の調節池化工事が進められてきました」。
「引堤は、利根川中流部の大規模な五大引堤工事を始め、江戸川の引堤、利根川下流部の引堤、常陸利根川(ひたちとねがわ)の引堤などが行われ、利根川下流部では大規模な浚渫などがうち立てられました。
利根川の五大引堤は、川幅が狭小で流下能力の不足する右岸の①行田(ぎょうだ)、②羽生(はにゅう)・千代田(ちよだ)、③五霞村(ごかむら)、左岸の④川辺(かわべ)・利島村(としまむら)、⑤新郷村(しんごうむら)、の5区間で、約23km間で河幅が狭小で流下能力が不足しているため約100~200m引堤し、川幅を620~640m確保するとしたものです。昭和24年度に開始し昭和42年度までに事業が完了していますが、この築堤工事に使用した総土量は、1,093万m3にも及んでいます」。
「利根川、江戸川、常陸利根川などの戦後の浚渫・掘削土量は約1億2,500万m3(山手線内側に約2mの高さの盛土ができる量)に達し、流下能力は格段に向上しました。また、利根川の堤防は、10mを超える比高差を有する区間もあり、万一、破堤氾濫が発生した場合、壊滅的な被害が予想され、経済社会活動に甚大な影響を与えることが懸念されるため、堤防断面の拡幅を行なっています。さらに、利根川中流部では、渡良瀬遊水地において調節機能を高めるため調節池化工事の囲繞堤(いぎょうてい)、越流堤等の整備や、田中調節池、菅生(すごう)調節池を概成させ稲戸井(いなどい)調節池を現在整備しているところです」。
青山:「ここまでは、特に関東地方の水害・防災の歴史について、先人が取組んできた偉業を含めてお話しいただきました。家康の先を見る力には、改めて感銘を受けました」。
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